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Home > ヨーロッパ > ルーマニア > ルーマニア:ティミショアラ800年S/S(1)

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ルーマニア:ティミショアラ800年S/S(1)
商品コード 066-1937
販売価格 1,980円
在庫数量 17
発行国 ルーマニア
発行日 2012-03-26
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商品詳細情報

歴史(ウィキペディアより)

 

1019年、ティミショアラは初めて文献に登場したと考えられている。これは東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世によるもので、ディビスコス、ビシスコス、ティビスコス、ティビスコン、ティビスコ等々の名称が使われていた。しかし歴史家のなかにはこれらの名称を現在のティミショアラと結び付けないものもいる。

市の名前の最初の表示は1177年の記録に記述されているCastrensis de thymesで、これはこの地域を流れているティミシュ川の名前に基づいている。「ティミショアラの砦」(Castrum Temesiensis)の最初の記載は、1212年の日付のハンガリー国王アンドラーシュ2世の布告に見られる。

1307年、ハンガリーの王カーロイ1世がティミショアラを訪れ、石の要塞を建設した。1315年から1323年の間、カーロイ1世の宮廷は、ハンガリー王国の首都になったティミショアラへ強制的に移動させられていた。この短い期間は、市に発展をもたらした。

14世紀の中頃からは、ティミショアラはオスマン帝国軍と西側のキリスト教国の戦いの最前線になった。1443年から、フニャディ・ヤーノシュはティミショアラに強力な要塞を建設し、トルコ人に対する軍の拠点として使用した。

都市は、1462年、1476年、1491年そして1522年に、オスマン軍によって繰り返し包囲された。ハンガリーは1526年にモハーチの戦いで壊滅的な損害を被ったが、ティミショアラは1551年10月までオスマン帝国に征服されることはなかった。

オスマン帝国に侵略された後、市は、オスマン行政区・テメシュヴァル州(Temeşvar)の中心地になった。要塞は再建され、ベオグラードと共にオスマン軍の重要な軍事基地として使われた。軍の方針により、都市自体はオスマンが管理していた間、ゆっくり発展していった。

ティミショアラには、木と石の城壁に囲まれた、城と都市の2つの要塞化された場所があった。城壁の周囲の堀と、200丁の銃が都市を守るために用いられた。城壁の中にはおよそ1,200の家、学校、ホテルと公衆浴場が建てられており、一方城壁の外には、他におよそ1,500の家が存在していた。

1716年10月12日、墺土戦争でオスマン軍はプリンツ・オイゲンに率いられたオーストリア軍によって市から追い払われた。ティミショアラは1718年のパッサロヴィッツ条約により、オスマン帝国からオーストリアのハプスブルク帝国に公式に譲渡された。

1720年のデータによれば、町の大部分の住民はセルビア人で、そして少しのルーマニア人がいたが、後にドイツ人、イタリア人、スペイン人の移民が、この地域に定住するために連れて来られた。 ハプスブルクの支配下で、1723年に、新しい石の要塞が都市の周囲に建設された。城壁の中に家、病院、学校と教会が建てられる一方、市の外には工場が作られた。また、ベガ川とティミシュ川が管理され、都市の周りの湿地帯が埋め立てられ、ベガ運河が作られた。

この期間には、強力な経済発展と人口増加があった。ティミショアラはハプスブルク君主国でも重要な都市のうちの1つであり、1781年、王立自由都市となった。 この時期、しばしばティミショアラは「ティミシュの上の城(Burg)」を意味するドイツ語の名前Temeschburgまたはハンガリー語のTemesvárに基づいたTemeschwarと呼ばれた。

 

1848年革命の後、市はセルビア軍によって占領され、1849年に、ティミショアラは「セルビアのヴォイヴォディナとタミシュ・バナト」(en:Serbian Voivodship and Tamiš Banat)と呼ばれる新しいハプスブルク行政区の中心地になった。

第一次世界大戦の後、1918年に一時的にバナト共和国となり、その後、市内へセルビア軍が侵入してきたが、1919年、ティミショアラは大部分のバナト地域と共にルーマニア王国の一部となった。

1989年12月16日、ニコラエ・チャウシェスクの指導する共産党政権に対する蜂起がティミショアラで起こった。ハンガリー改革派教会の牧師ラースロー・テーケーシュ(英語版)を解任しようとした秘密警察に対して、市民がテーケーシュを支援したのである。

このティミショアラの蜂起はルーマニア革命の始まりとなり、1週間後のチャウシェスク政権の崩壊とルーマニアの自由化へと繋がるターニングポイントとなった。

同年12月20日、ティミショアラはルーマニア最初の自由都市と宣言された。報告された革命の間の死者は1,104人、負傷者は3,352人であった。



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